忘れえぬ人 …チリリリ…ン…チリ…ン… 縁側の軒下で風鈴が澄んだ音色を響かせる。 穏やかすぎる夏の午後。青い空を悠々と流れる雲…風にそよぐ樹々の緑。 ねぇ?次に目が覚めた時、あなたはオレを覚えているのかな…? 胎児のように身体を丸めて眠るイルカは、幸せな夢でも見ているのだろうか?口許に微かな笑みを浮かべている。 頬にかかった後れ毛にそっと指先をのばしたカカシは、触れる寸前で動きを止めた。 触れたら眠りから覚めてしまうかもしれない。ゆっくりと瞼を開いたイルカがどんな表情を浮かべるのかが怖かった。 いっそこのまま…眠り続けてくれてもいい。そうしたらあなたはずっとオレの恋人のイルカ先生のままなのに…… --*--*--*--*--*-- イルカに異変が起きたのはまだ春もまだ浅い頃だった。 「イルカ先生、昨晩話したことですけどね?」 「…昨晩…?あれ?何でしたっけ?」 「あっ、忘れちゃったんですか?次の休暇の約束したでしょ?」 ほんの度忘れくらいだと思ったカカシは、酷いですねぇ…と大袈裟に拗ねてみせたのだが、 「…昨夜、そんな話しましたか?」 イルカは真顔で考え込んでしまった。 「ホントに覚えてない?」 そう訊いてイルカの顔を覗き込んだカカシに、こくりと頷いた表情が少し不安気だった。 「ごめんなさい…そんなに呑んだつもりはなかったんですけど、酔ってたのかな?」 昨夜は確かに二人で軽く呑んでいた。しかし、酔うというほどには呑んではいなかった。 『明日は体術の授業があるんですっ!』 ベッドでそう言われておあずけを食らったのだ。記憶が飛ぶほどに泥酔していたはずがない。 しかし、度忘れしただけならば、カカシの言葉を聞いて思い出してもいいはずだ。 どうにも腑に落ちない話ではあったが、何しろ慌ただしい朝のことで話は後に持ち越された。 それから一週間ほど、急な任務で里を離れていたカカシが帰還すると、受付所にイルカの姿がなかった。 顔見知りのイルカの同僚に尋ねたところ、ここ数日休んでいるとの返答が返ってきた。 体調を崩し寝込んでいるのかと、慌てて帰宅したカカシは、灯もつけず薄暗い部屋の片隅に蹲るイルカを目にして言い知れぬ不安に襲われた。 「イルカ先生?」 抱えた膝に顔を埋めたまま動かないイルカに静かに近付いたカカシは垂らしたままの黒髪にそっと手をのばした。 ユラリとようやく顔を上げたイルカは薄闇の中でもはっきりとわかるほどに泣き腫らした目をしていた。 「何があったの?」 動揺を隠し、できる限り穏やかな声を意識して訊いたカカシにイルカはゆらゆらと首を振った。 そして、一言だけ。 「わからないんです…」 消え入りそうな声で呟いた。 --*--*--*--*--*-- 「記憶障害、ですか?」 「はい。詳しいことはもっと検査を重ねてみなければわかりませんが、うみの中忍の症状を伺った限りではそうだと思われます」 「原因は?」 「記憶障害の原因は様々ですが、腫瘍などによる病的なもの、精神的な要因が深く関わるもの、後は頭部に強い衝撃を受けたことによるものなどがあります」 「イルカ先生は?」 「まだ断定はできませんが、少し前、アカデミーの演習中に頭部を強打したと本人がおっしゃっていましたので、そこが気になります」 そう言えばそんなことがあったかもしれない。岩場で足を踏み外した子供を咄嗟に庇った時だったか。 「治療で良くなるんですよね?」 「それも現時点でハッキリとお答えすることはできません。原因も多様ですが、症状や治癒課程もそれぞれの患者さんによって異なるのです」 「検査にはどれくらいの時間を要しますか?」 「細部まで詳しく調べますので十日はみて下さい」 結局、今は何もわからないままだが仕方がない。よろしくお願いしますと頭を下げて医師の前を辞したカカシは晴れぬ不安に表情を曇らせた。 医師が人それぞれだと言った症状。イルカの場合記憶が切り取られたように抜け落ちていくらしい。 前夜にカカシと交わした会話を忘れてしまったのを始まりに、イルカは少しずつ記憶を失い始めた。 新しい記憶ほど忘れやすいようではあるが、規則的に時間を逆上っているわけでもない。唐突に消えてしまう記憶もあれば残る記憶もあるのだ。 カカシが任務で留守にした間にも、不可解な記憶の欠落に遭遇したイルカは、不安に苛まれ病欠の届出をして家に引き籠もっていたらしい。 このままではいけないと説得し、診察を受けさせたのだが、今の医師の説明をそのまま話せば余計不安にさせるだけだろう。 取りあえずは当たり障りのない部分だけを伝えて、イルカを落ち着かせてやろうと決めて、カカシは病室へと向かった --*--*--*--*--*-- 連日様々な検査を重ねても、確定的な要因は判明しなかった。 しかし、脳内に腫瘍などの病的なものは発見されず、命には関わらないことは判った。 それだけでもカカシは幾分安堵したのだが、記憶の欠落を防ぐ術は見つからなかった。 入院が長くなるほどに塞ぎ込んでゆくイルカを見るに絶えず、カカシは医師と相談の上、自宅療養に切り替えた。 二人で暮らす家に戻ったイルカは久し振りに明るい笑顔をみせた。 「やっぱり家がいいですね。落ち着きます」 「病院は堅苦しいですからね」 ゆったりと縁側に座り込んだイルカは、懐かしそうに庭を眺めた。しばし黙り込んだのち、イルカはキュッと隣りに座るカカシの服を握った。 「カカシさん、俺どうなるんでしょうね。どこまで忘れてしまうのかなぁ…」 呟いたイルカが浮かべた微笑がどこか儚い。同じ恐怖をカカシも抱えているけれど、それはけして見せてはいけない。 カカシは自らの胸の内を押し隠して微笑い、ふわりとイルカを抱きしめた。 「大丈夫。焦らずゆっくり治療を続けたら必ず治ります。思い詰めちゃダメですよ」 それはまるで自分自身に言い聞かせるような言葉。いつか必ず治癒すると信じ込まなければ動けなくなりそうだった。 「そうですね。頑張ります」 腕の中で小さく呟いたイルカの背中を優しく撫でながら、カカシは祈るように天を仰いだ。 --*--*--*--*--*-- それから数ヶ月。 イルカの記憶は少しずつ消えていた。ページごと破り取られるようになくなってゆくイルカの過去。 空白が増えて行くにつれ、イルカはぼんやりとしている時間が長くなった。 日がな一日、庭を見つめて過ごすことも少なくはない。 だが、イルカがどんな状態であろうと、カカシにとっては愛しい存在だった。真綿で包むように大切に守り続けていた。 ある夜。イルカはカカシの腕の中で小さく呟いた。 「ね…もしも…俺がカカシさんを忘れてしまったら…一緒にいてくれなくていいですよ」 「いきなり何を言い出すんですか?」 「覚えていない俺よりも、あなたの方が辛い思いをするでしょう?」 日々、自分の頭の中から消えて行く記憶。いつかはカカシのことさえ忘れてしまうと危惧する気持ちは判る。 「オレとはいつも一緒にいるんですから、忘れたりしませんよ」 イルカを抱く腕に力を込めながら、言った言葉はきっと気休めでしかない。 イルカはその時すでにナルトの存在すら忘れていたのだから… やがてイルカの中からカカシの存在も消え去ってしまうのかも知れない。 「忘れたくない…カカシさんのことだけは覚えていたい」 絞り出すような声で言ったイルカは、息が苦しくなるほどに強くカカシに抱き付いた。 しがみつく腕が震えていた。涙を見せずに泣く人をカカシはただ抱き返すことしか出来なかった。 --*--*--*--*--*-- 「不思議ですね…」 カカシの傍らで幼子のような笑みを浮かべるイルカを見つめて医師は呟いた。 記憶が消えはじめてから一年と少し。イルカは自らが歩んで来た時間のほぼ全てを失った。 ここにいるのはまっさらで無垢なイルカ。哀しいことも嬉しいこともみんな忘れてしまったイルカ。 それでも。イルカは今もカカシの手を握っている。 「はたけ上忍が任務に出ている間は、こんな風に笑うことはないんですよ」 一人では生きられなくなってしまったイルカを、長い任務の時だけ病院に預かってもらっている。里に戻ればこうして迎えに来る。 その度にイルカは待ち侘びていたようにカカシに縋り付き、本当に本当に嬉しそうな笑顔をみせる。 「何も覚えていないはずなのに…何故なんでしょうね…あなたのことだけは判っているんですよ」 医師は感慨深げに呟いた。誰の顔も誰の名も覚えてはいないイルカが、たった一人カカシの名を呼ぶ。 「理由なんていらないんです。記憶も必要ありません。この人の心が、オレを覚えていてくれるならそれでいい…」 イルカが生きていてくれる。イルカが隣りで笑ってくれる。それだけでいい… 「帰ろうね?イルカ先生」 そう囁いたカカシにイルカは素直に寄り添う。 『忘れたくない…』 イルカが繰り返し呟いた声を思い出す。 うん。あなたは忘れなかったね。この握った手のひらから今もあなたの想いを感じるよ。 「イルカ先生、オレは死ぬまで先生と一緒にいるよ」 だって辛くなんかないから…今もあなたの隣りにいるのは幸せですよ。 「カカシさん」 「ここにいますよ」 柔らかな笑みを交わす二人の心は今もこれからも、深い深い場所で繋がっている。 飛燕さんありがとうございます。 この話は、蟻めがリクエストしたものですvv リク内容は…… 記憶喪失です♪ 記憶を無くすのは、カカシさんorイルカさんor両方から飛燕さんに選んで貰いましたよvv で、出来たのが イルカさんの記憶障害でした。 ちゃんと記憶が無くなっていましたのでGOサインを出しました。 ちょっぴり暗め飛燕さんの書くお話としては珍しい傾向です。 蟻めはそんなところにもドキドキしながら読みましたよ(爆) 素敵話をありがとうございました。 お宝へ |